今日は地区の「地域防災の講習会」でした。防火クラブの支部長なのでお声もかかり行ってきました。

そして何で今なんだろうと考え・・・・るまでもなく26は忘れない日。「宮城県北部連続地震」

去年のその日、日記に書こうとしたのですが、私熱出してうなって、それでも札幌行くためにアルバム聞いていたんですよね^^;なので、自分の記憶が危うくなる前に、自分のために書きたいと思います。

7月25日(金)「金スマ」終わって、そのまま「ヒカルの碁」のビデオを見てるうち日付が26日に変わって、まず1回目の地震がありました。
はじめこれが本震だと思ってました。

宮城って地震が多いところで、過去にも大きな地震があり、多少の揺れはなんてことないっていう変な自信がありました。

でもそのときは、一回縦揺れというか地の底から「ド〜ン」と突き上げられたかと思うとすぐ強い横揺れで。

いつも倒れていたのはスチールの本棚なんですが、今回は初めて婚礼タンスが倒れました。婚礼タンスってはめ込み式になってるのでちょっとのことでは外れないのですが、その「ド〜ン」で浮いてずれて倒れました。

倒れたところは布団の上。ビデオ見てなかったらって思うと今でも怖い。

いつもより強い揺れだったので、みんなでタンスを元に戻し寝たのが2時近く。

そして朝の7時13分。震度6強の地震が起きました。
これもね、やっぱり「ド〜ン」と強い立て揺れのあと、これまた強い横揺れで、そうなるともう立ってられないし、なんにも出来ません。

柱にくっついてるのがやっと。
タンスは部屋の中心に向かって全部倒れるし、TVも棚から落っこちて、ガラスの本棚も倒れてガラス戸はメチャメチャ。

このとき田んぼで草刈していた人に聞いたけど、海の方向からまるで土地がウエーブして迫ってきたそうで。

そのときから電気、水道は使えず。こちらはプロパンガスなので
火の心配はなかったのですが、はじめて給水車のお世話になりました。

仙台の妹がお舅さんと水と食料を持ってきてくれて助かりました。夏ってこともあり子供たちはキャンプ状態。
だけど夕方の4時過ぎにも震度5強の地震があり、仙台に帰るときにおばあさんと子供たちも連れて行ってもらい、こっちに残ったのは旦那とじっじと私。

夜になって中学校の体育館に避難しようかってなったのですが、火事泥棒、地震泥棒が心配で行きたくないって。

でも地震で壊れている家の中で寝たくはなかったので車の中。
じっじは別の車で、私たちはワゴン車で。

その頃には隣町には電気はついて明るいのが見えたのですがこちらはまだ真っ暗。電力会社の方が一軒一軒訪ねて来てくれて避難所に行かない人たちに「もうすぐ電気通るから、それまで使っててください」と懐中電灯をおいていってくれました。

そのワゴン車で聞いたのが土曜日だったので「サムガ」ですよ。
しかも中居君の「女の子の好きなパーツ」だったかな。二の腕とかなんやら・・・それを狭い車の中で聞いてる2人「アホやな」って旦那の一言にカチーンときて寝たふりをしたり。

朝が来て27日、余震もまだあったけど家にあがって部屋を少しつつおかたづけ。

旦那は消防団に入ってるのでそっちのお仕事。
自分の家がとんでもないことになってるのにそっちにいちゃたので一人でお掃除。まずは砕けたガラスから。もう土足ですよ。

私一人ではいつまでたっても終わらないので仙台に行ってた子供たちも呼び戻しました。その当時もう高1、中2、小6だったので助かりました。

そして10時ちょっと前、電気が通り、なので「いいとも増刊号」がちゃんと撮れ、地震のための番組の撮りそこないは無かった幸運、ってそこに行くの・・・

TV画面から見る自分たちの町、
自分の近所しかわからないのでとっても不思議な感覚でした。
町職員の同級生が全国ネットのニュースでインタビュー受けてるのを見たり、近所の子が避難所で遊んでたり。

まだ水道通ってないのに28日、味スタに逃げるようにライブ見に行きました。その日の朝も余震があり仙台までの在来線が動かなかったけど新幹線は動いてたので仙台まで車で送ってもらって。

このときは実家母と娘2人と4人で行きました。
東京行き諦めてたけど旦那が「ここにいてもなんにもすることないから行っておいで、帰ってきたらやらなければいけないことたくさんあるから」このときすごく感謝しました。東京行ってライブ見て、またやる気が起きたから。

帰ってきてからのほうが大変でした。母屋を調べてもらったら住める状態ではないと、もう1回同じような地震がきたら潰れると事実上”全壊”扱い。

お盆前には、もう母屋は取り壊し。
いとこが建築関係の仕事をしてたので少し安く上げてもらって近所の人にも手伝ってもらって3日かかったけど更地になりました。

私たちは母屋続きの鉄筋で出来た作業小屋の2階に住んでいたので、1階の作業小屋に茶の間を作り、農家なので味噌部屋って言うのがあって流しはあったので、そこにガス台と湯沸かし器をつけて、にわか台所。

庭にプレハブを借りてそこにおばあさんの財産(荷物)を置きました。

幸いなことにトイレとお風呂は、取り壊す必要もなく。

ただここから精神的に大変でした。
住めないから壊したのはいいけど、新築するには肝心のお金がない!

借りるにしても、農機具や作業小屋を建てたときの借金があると借りられるお金にも限度があったり。どうにもこうにも動きが取れないときに、宮スタのチケットが届きました。

物事どうにも動きがとれないときに、ちょっとしたきっかけで今までのことがウソのようにみんなクリアになることあるでしょ〜そんな状態でした、あの時は。

お金借りられるメドもたち、12月30日かな・・・新しい家に移ることができ新年を迎えられました。

あ〜「サムガ」始まりました。
そして明日は県大会、「宮スタ」に行ってきます。
MIJのライブ以降、3回目、ライブじゃないのが、ね〜>。<

コメント

関西人
2006年7月22日23:06

地震は怖いですよね。
私は揺れている間、ずっとなんや分からんけども、
「ごめんなさい、許して下さい」って祈ってましたわ。

かおちゃんさんも、えらいことでしたね。
一生、忘れられないでしょうね。

かおちゃん
かおちゃん
2006年7月23日7:18

関西人さん、おっは〜です。
あの時は「人類最後」かと本気で思いました。
揺れがおさまった後「生きてる!」って。

今子供たちは変な自信があるのです。あの地震で怪我一つしなかったから。けれども、それはいい方向に偶然が重なった「たまたま」なんだと。
まわりになんにもない平坦な土地、季節、時間・・・・今集豪雨で被害にあわれてる方々をTV画面を通して見てると、自然は心を和ませるときもあるけど時として牙をむいてくる、それを目の当たりにして、感じるものがあればと思ってます。

若子
若子
2006年7月23日11:15

思い出しますね。あの時は、最初の手術での入院中でした。
かおちゃんさんの所ほどの揺れではなかったけれど、やっぱり怖かったですね。
だから、体が不自由な人が災害に遭った時の恐怖は、少しだけど想像できます。
8月8日に退院して、そのお祝いのように知人からオーラスチケットを譲ってもらえて、杖ついて宮スタに行きました(笑)。

会って話をすると、いつも元気一杯なかおちゃんさん。
いろんなことをクリアして、頑張っていて。頭が下がります。
そのうちまた、お話聞かせて下さいね。

かおちゃん
かおちゃん
2006年7月23日18:48

若子さん こんばんは〜
いろいろあったけど今こうやって生きてるので、それで幸せです。若子さんもその日のためにリハビリも頑張れたんですよね。
あ〜〜ん、会ってお話したいよ〜んと甘えて見る私^^;

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